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松山地方裁判所 昭和43年(行ウ)23号 判決 1973年1月29日

原告 坂本貢

被告 愛媛県知事

訴訟代理人 河村幸登 外三名

補助参加人 和田信子

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、原告

1  被告愛媛県知事が昭和四二年一二月二五日付愛媛県指令農拓第一、六四一号をもつてなした原告と和田(旧姓坂本)信子間の別紙目録記載の農地についての賃貸借解約申入許可処分は、これを取消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二、被告

主文同旨。

第二、当事者の主張

一、請求原因

1  原告は、和田(旧姓坂本)信子(以下信子という)の所有する別紙目録記載の農地(以下本件農地という)をその前所有者坂本精市時代から賃借して、現にこれを小作している。

2(1)  被告は、信子から昭和三八年八月二日付で原告と信子間の本件農地についての賃貸借解約申入許可申請を受け、いつたんは右許可の理由はないとして昭和三九年五月二六日付でこれを不許可処分にした。

(2)  ところが、農林大臣が、信子からの右不許可処分を不服とする審査請求を容れて、昭和四二年一二月四日、「原告は水利権がないのに伊予郡砥部町大字七折字野中甲九九番地の自作畑(別紙図面(F)の土地、以下自作畑という)に北谷川から引水して、信子の同町大字七折字野中甲一〇七番地および同一〇九番地の自作田(別紙図面(C)、(B)の土地、以下北谷地区自作田という)の北谷川からの引水を妨害したが、原告の右行為は賃借人としての信義に反したものである。」として被告のなした右不許可処分を取消したため、被告は、あらためて昭和四二年一二月二五日付愛媛県指令農拓第一、六四一号をもつて本件農地の賃貸借解約申入許可処分(以下本件許可処分という)をなした。

(3)  そこで、原告は、右処分を不服として昭和四三年一月二二日農林大臣に対し審査請求をしたが、農林大臣は、同年九月一〇日、右(2) と同様の理由により右審査請求を棄却した。

3  しかしながら、原告は、昭和の初めころから右自作畑に給水溝(別紙図面甲水路)を開設して北谷川から引水しており、そのころから右自作畑に部落の慣行による水利権(信子の北谷地区自作田との共同水利権)を有していたから、原告が北谷川から右自作畑に引水しても、信子の右自作田の水利を妨害したことにはならず、賃借人としての信義に反したものであるとはいえない。

4  よつて、本件許可処分は、農地法二〇条二項の要件を充たさない違法なものであるから、これが取消を求める。

二、請求原因に対する認否

1  請求原因1項は認める。

2  同2項はいずれも認める。もつとも、(2) の農林大臣の取消処分以下の各行政処分の理由は原告主張の理由のほかにも存することは後述のとおりである。

3  同3項は否認する。

4  同4項は争う。

三、被告の主張

被告は、原告に賃借人として信義に違反した行為があるとして本件許可処分をなしたものであるが、その信義違反の行為とは次のようなものである。

1  (北谷地区における水利妨害)原告は、北谷地区の自作畑を昭和二二年ころまでに畑から田に改造し、そのかんがい用水としては右自作畑に付設された溜池(別紙図面g1ないしg3の三個)の水を利用していたが、昭和二四年ころの南海大地震により右溜池の水溜りが悪くなり、右自作畑への用水に不足を来たすようになつたので、そのころから原告宅背面から山沿いに北谷川に通ずる水路(別紙図面甲水路)を利用して北谷川から右自作畑の用水を引水するようになつた。しかしながら、これはあくまでも信子の北谷地区自作田(これには水利権がある)に引水した後になお余水があれば原告も自作畑に引水することができるというものであつて、独占的水利権あるいは共同水利権に基くものではなかつた。

しかるに、昭和三六年夏の干ばつの際に、信子の北谷地区自作田の用水に不足を来たすこととなつたため、信子の母で主として信子の右自作田を耕作していた坂本冨司が、原告に対し、同人の自作畑への引水を中止するよう申入れたが、原告は自己に水利権がある旨主張してこれを拒み自作畑への引水を継続したので、両者間で右水利争いが生じた。

そのため、砥部町農業委員会があつせんにはいり、同年八月三〇日、右冨司と原告の長男でその代理人坂本源吾との間で次のような協定が結ばれるに至つた。

(1)  北谷川の水利については原告は今年に限り一日二時間とすること。

(2)  その時間は毎朝六時から八時までとすること。

(3)  その他の時間は水を引かないこととする。

もちろん、右協定の趣旨は、原告に水利権を認めたものではなく、昭和三六年に限つて信子が水不足であつても一日二時間だけは恩恵的に原告の自作畑への引水を認めるが、昭和三七年以降は原告の引水は一切認めないというものであつた。

その結果、原告は、昭和三六年中は右協定どおり一日二時間の引水を励行したのであるが、翌昭和三七年に至るや、右協定は昭和三六年限りのものであつて昭和三七年度は従前どおりの水利権があると主張して、一日四時間北谷川から引水したため、両者間の水利争いが再燃した。そしてついに右冨司は、昭和三七年夏、自己防衛のため、原告の右自作畑への流水を遮断すべく信子の右自作田の引水口付近のコンクリート用水路(別紙図面の甲水路中(D)(E)間の部分)を破壊して、北谷川からの流水を全て信子の右自作田へ引水したところ、原告の長男源吾は、これに対し、右破壊部分に竹樋いを差渡して自作畑に引水するというような実力による紛争が繰返された。

その結果、両者間の感情的な対立は一層激しくなり氷炭相容れないものとなつただけでなく、北谷川の別紙図面甲水路よりも下流から引水する砥部町大字七折字野中甲八三番地および八四番地(以下横田地区という)の本件農地およびその下段の信子自作田(別紙図面<ホ><ヘ><ト><チ><リ>の土地)への流水量を減少せしめ、信子の水稲耕作を困難ならしめた。

2  (横田地区における水利妨害)原告は、昭和三八年および昭和三九年の両年にわたり、北谷川から本件農地およびその下段に存する信子自作田へ流れる用水路(別紙図面乙水路)の途中数箇所(別紙図面の<6>点や<7>点など)を板・石・泥などによつて閉鎖して右信子自作田への流水を遮断し、同人の番水を妨害した。 また、原告は、右年度ころ、横田地区の右用水路から、まず本件農地中の別紙図面<イ>の田へ引水し、その余水を別紙図面<ハ>の田へ流し、さらにその余水をその下段に存する信子自作田中の別紙図面<ホ>の田へ流すべきであり、またその余裕もあつたのに、右信子を困らせる目的のみをもつて故意に本件農地中の右<イ>および<ハ>へ引水しただけで、さらに右<ホ>へ流さなかつたため、右<ホ>についての信子の水稲耕作を困難ならしめたのである。

なお、原告は、横田地区の信子自作田中別紙図面<ホ>の田は畑中浅吉に小作に出しているから信子の自作田ではない旨主張するが、右<ホ>を含めて信子自作田はその母坂本冨司が主として耕作している自作田である。ただ、冨司は身体が弱いので、昭和三八年以前から農繁期ごとに必要に応じて日当(男は八〇〇円ないし一、〇〇〇円、女は六〇〇円ないし八〇〇円程度)を支払つて近隣に居住する畑中俊夫およびその家族に耕作を手伝つてもらつたことはあるが、右は小作というべきものではない。

四、被告の主張に対する認否

1  被告の主張1項については、原告は北谷地区の自作畑について信子と平等の共同水利権を有していたものである。被告主張の水利の争いは、昭和三六、七年ころの異常干ばつのために、信子側が原告の自作畑への流水を遮断したことから発生したものである。また、被告主張の協定は昭和三六年の引水のみについての協定であつて、昭和三七年度以降の引水は自由であつた。その余の事実は否認する。

2  同2項は否認する。なお、被告は、別紙図面<ホ>の田は信子の自作田であると主張するが、右田は昭和三八年ころから現在に至るまで畑中浅吉に小作に出しているものであるから、信子の自作田ではない。したがつて、昭和三七、八年ころの干ばつの際の水利争いは原告と右畑中との間で生じたものであつて、信子の母冨司はこの争いについて畑中側に加担したにすぎないものである。

第三、証拠関係<省略>

理由

一、原告は信子からその所有する本件農地を賃借して現にこれを小作していること、被告は信子から昭和三八年八月二〇日付で原告と信子間の本件農地についての賃貸借解約申入許可申請を受け、いつたんは右許可の理由はないとして昭和三九年五月二六日付でこれを不許可処分にしたこと、ところが農林大臣が信子からの右不許可処分を不服とする審査請求を容れて昭和四二年一二月四日付で「原告は賃借人としての信義に反した行為をした」として被告のなした右不許可処分を取消したため、被告はあらためて昭和四二年一二月二五日付愛媛県指令農拓第一、六四一号をもつて本件許可処分をなしたこと、そこで原告は右許可処分を不服として昭和四三年一月二二日に農林大臣に対し審査請求をしたが、農林大臣は同年九月一〇日付でこれを棄却したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二、そこで、原告が賃借人としての信義に違反した行為をなしたかどうかについて判断する。

1  (原告の自作畑に水利権があるかどうかについて)

<証拠省略>を総合すると、原告の自作畑(別紙図面(F)の土地)は、昭和二二年ころまでは主に畑として耕作していたが、そのころ田に改造し、そのかんがい用水としては、右自作畑の南西角からほぼ南西方約十数メートル内に設けられた溜池三個(別紙図面g1ないしg3の池、g1はほぼ楕円形で長さ七ないし八メートル巾約三・五メートル、g2は長楕円形で長さ五ないし六メートル巾約二メートル、g3はほぼ円形で直経約三メートルのもの)から水路を設けてこれを利用していたこと、ところが昭和二四年ころに南海大地震が当地方を襲いそのころから右溜池の水溜りが悪くなり、右自作畑への用水に不足を来たすようになつたので、原告はそのころから自宅背面から山沿いに北谷川に通ずる水路(別紙図面甲水路)を利用して右自作畑の用水を引くようになつたこと、一方、信子の北谷地区自作田(別紙図面(C)、(B)の土地)はもともと田であつてそれ以前の古い時期から北谷川水系から引水していたこと、砥部町大字七折部落においては、もともと田であつたもの(本田)には他の本田と共同して同水系の水利権を有するが、もともとは畑であつたがそれを途中で改造して田としたもの(畑田)には同水系の関係者全員(同一堰者間だけでなく同一水系であれば複数の堰関係者全員)の同意を得て金銭で買取るか、もしくは水路補修費を負担して右関係者全員の同意を得て取得するかしない限り水利権はなく、せいぜい他の水利権者が用水した後の余水を利用しうるにすぎないという慣行があること、信子の北谷地区自作田を主として耕作していた信子の母坂本冨司は昭和三四年ころに原告の長男坂本源吾から別紙図面甲水路をコンクリート舗装にしたい旨の申入れを受けて、北谷川引水口(別紙図面(A)地点)から信子の北谷地区自作田の引水口までの約二五間(約四五メートル)について舗装費の半額三、〇〇〇円を支払つたが、右は冨司が原告の水利権を認めたことによるものではないこと、砥部町七折都落には畑田であつて水利権のないものがいくつかあつて、それらは北谷川の共同水系の水は取れないため溜池とか井戸などの専用水源を確保していること、原告の自作畑も右の畑田であつて、右のとおり以前その専用水源として溜池を持つていたことなどの事実が認められ、右認定に反する<証拠省略>は前掲証拠に照して措信することができず、他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない<証拠省略>七折区土地台帳写には原告の自作畑の地目欄に当初田と記載されそれが抹消されて畑と記載されそれも抹消されて再び田と記載されたとうかがえる部分があるが、右をもつても原告の自作畑が畑田であつたとの右認定をくつがえすに足りない)。

右認定事実によれば、畑田である原告の自作畑には部落の慣行による水利権は存在しないものと解される。そうだとすれば、原告の自作畑はせいぜい信子の自作田などが用水した後になお余水があるときに限りこれを利用しうるにすぎないものであるといわなければならない。

2  (北谷地区における原告の水利妨害の有無)

<証拠省略>を総合すると、昭和三五年頃までは原告が北谷川から別紙図面甲水路を利用してその自作畑に引水しても、水不足ではなかつたため、原告と信子の間に紛争は生じなかつたところ、昭和三六年夏にひどい干ばつに襲われ信子の北谷地区自作田の用水に不足を来たすこととなつたため、信子の母で右自作田を主として耕作していた坂本冨司が、原告の長男で原告自作畑を主として耕作していた坂本源吾に対し右自作畑への引水を中止するよう申入れたこと、これに対し源吾は原告に水利権がある旨主張してこれを拒み右自作畑への引水を継続したので、両者間で紛争が生じ、そのため冨司のあつせん申請により砥部町農業委員会および民生委員影浦五郎らが調停に乗り出したこと、農業委員および影浦らは、原告の自作畑は畑田であつて水利権はないから本来北谷川の水は引けないが、今年は既に右自作畑に稲を植えていることでもあるから一日二時間ほどの引水を認めてもらつて、来年からは右畑田にみかんでも植えたらどうかという調停案を双方に示して調停した結果、昭和三六年八月三〇日冨司と源吾との間で、<1>北谷線の水利については今年限り一日二時間とすること、<2>、その時間は毎朝六時から八時までとすること、<3>、その他の時間は水を引かないこととする旨の協定を結んだこと、右協定の趣旨は原告の自作畑には水利権がないことを前提に、既に稲を植えている昭和三六年に限つて信子の自作田が水不足であつても一日二時間に限り恩恵的に原告の自作畑への引水を認める、昭和三七年以降は原告自作畑への引水は一切認めないというものであつて、右の点は源吾も十分承知していたこと、そして源吾は昭和三六年中は右協定に従つて一日二時間の引水を励行していたが、昭和三七年に至るや右協定は昭和三六年限りのものであつて昭和三七年以降は従来どおり原告に水利権があると主張して原告の自作畑に一日四時間ほどの引水をしたこと、昭和三七年夏も干ばつにみまわれ信子自作田に水不足を来たすようになつたため両者間の水利争いが再燃し、ついに冨司は自己防衛のため原告自作畑への流水を遮断すべく信子自作田の引水口付近のコンクリート用水路(別紙図面甲水路中(D)(E)間の部分約七・二メートル)を破壊して信子自作田へ引水したところ、源吾はこれに対抗して右破壊部分に竹樋いを差渡して自作畑に引水するので、冨司はやむをえず右竹樋いを取除くと源吾がすぐそれを差渡すというような実力による紛争が繰返されたこと、原告は長男源吾の右行為を制止することなくすべてこれを容認していたこと、以上の原告側の行為により両者間の感情的な対立は一層激しくなり氷炭相容れないものとなつたことなどの事実が認められ、<証拠省略>は前掲証拠に照しにわかに措信しがたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

3  (横田地区における原告の水利妨害の有無)

前項に掲げた各証拠(ただし後記措信しない部分を除く)によると、横田地区の本件農地(別紙図面<イ><ロ><ハ><ニ>の田)およびその下段にある信子自作田(同図面<ホ><ヘ><ト><チ><リ>の土地)は旧来からの本田であつて北谷川からの水利権を共同で有しているところ、昭和三五年までの右各田の番水(かんがい用水が不足するときに同一水系の各耕作者が時間ないし日にちを決めて順番に引水する部落慣行のこと)は原告の本件農地が二日、信子の右自作田が一日の割合でおつたものが、昭和三六年八月三〇日に砥部町農業委員会や民生委員影浦五郎らのあつせんで前項協定ができた際、信子の母冨司と原告の長男源吾との間で原告の本件農地は一日半、信子の右自作田は一日の番水とする旨の協定ができたこと、本件農地およびその下段の信子自作田の各田の位置および高低は別紙図面第一図(拡大図)、第二図のとおりであつて、また各田への引水口については別紙図面のとおり<イ>の田は<1>点、<ハ>の田は<2>点と<4>点、<イ>と<ニ>の田は<3>点、<ロ>の田は<5>点、<ホ>の田は<8>点、<ヘ>の田は<10>点、<チ>の田は<11>点、<ト>の田は<12>点の地点に存すること、昭和三八年および三九年の両年においても横田地区は用水不足で本件農地および信子自作田において番水を実施していたところ、源吾は信子自作田の番水時間中であるにもかかわらず右各田へ流れる用水路(別紙図面乙水路)の別紙図面<6>点や<7>点などに板・石・泥などを置いて流水を遮断して本件農地へ引水し、右信子自作田の番水を妨害したこと、また本件農地中別紙図面<イ>に引水した後その余水は田渡しで<ハ>の田へ流し<ハ>の田の用水が余つたときはさらに下段の<ホ>の信子自作田へ流さなければならない慣行になつていたところ、源吾は右年度ころ右信子自作田の耕作を困難にさせる目的のみをもつて故意に<イ><ハ>の田へ引水しただけでその余水を<ホ>の信子自作田へ流さずこれを県道のほうへ流してしまつて、信子自作田の水稲耕作を困難にさせたこと、右信子自作田は主としてその母冨司が耕作しており、ただ冨司は老令(当時六十余歳)で身体が弱いため農繁期ごとに日当を払つて畑中俊夫などに耕作を手伝つてもらつていたにすぎないこと、原告は長男源吾の右各妨害行為を制止することなくこれを容認していたことなどの事実が認められ、<証拠省略>は前掲証拠に照しにわかに措信がたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

4  前項までに認定した事実関係によれば、本件農地の賃借人である原告は賃貸人信子との間の信頼関係を破壊し、信義則を基調とする継続的債権関係である本件農地の賃貸借契約を存続させることがもはや期待することができなくなつたものというべきであるから、原告の右行為は農地法二〇条二項一号にいう「賃借人が信義に反した行為をした場合」に該当するものといわなければならない。

三、以上の次第で、被告愛媛県知事のなした本件許可処分は農地法二〇条二項一号の要件を充たす適法なものであつて、これが取消を求める本訴請求は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 秋山正雄 梶本俊明 梶村太市)

目録<省略>

別紙図面<省略>

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